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COLUMN

Columne

世界の街角で働くということ

英国建築設計現場の風景
山嵜 一也
英国に観光ビザで入国し500社以上の就職活動。貰った断りのレターは59通。留学ではなく働くことを求めて海を渡ったのはリアルな英国の風景を見たかったから。必要とされれば採用、いらなくなればクビ。多国籍チームでは多くの誤解も生じたが、そのムッとする瞬間こそが出発点。相手を拒絶していたら距離は縮まらない。英国のやり方すら通用しない。正解がない。答えは一つではない。相手を説得し、自分を納得させる。建設現場では小さなコミュニケーションの積み重ねで信頼を得るのだと肌で学ぶ。理解しようという覚悟。それは語学力とは別次元の話。仕事で使える言語能力は悔しい思いでしか身につかない。12年間で4度の解雇。英国建築設計現場の風景をお伝えします。
第13回 「特別編-ザハ・ハディドと対峙するために必要な技術 」

“I don’t know. (知らない)”
 一つ目の答えに続いて、二つ目も同じだった。その答えを聞いた瞬間、ロンドンの建設現場で施工業者が無理難題を言い、設計士である私を試していたことを思い出した。今回も私は試されている。しかし、ここは静寂に包まれた新宿パークハイアット高層階のスイートルーム。グランドピアノを背にした建築界の巨匠ザハ・ハディドと私は向き合っていた。彼女は新国立競技場コンペの最優秀賞受賞者であり、建築界のノーベル賞と言われるプリッツカー賞を女性で始めて受賞した英国を拠点にするイラン出身の建築家だ。しかし、彼女のインタビューに至る長い道のりは、44時間前、携帯電話への一本の電話から始まった。

 2013年1月に日本へ本帰国した私は生活の拠点を構えるべく、都内で不動産巡りや役所の手続きなどをしていた。家具選びをしているとき、私の携帯電話が鳴った。建築雑誌の編集者からだった。

 『明日、ザハ・ハディド氏が新国立競技場コンペ授賞式に合わせて来日する。そこでインタビューの通訳をして欲しい。』とのことだった。巨匠へのインタビュー通訳という大役に躊躇したが、それ以上にそのような人と話せるいう好奇心が勝った。日時と場所を確認すると『彼女の事務所の広報担当者の携帯電話番号があるから、まずインタビューが可能か頼んでくれ』と言われ、電話は切れた。(えっ?そこから?)東京の雑踏の中、私はしばし呆然とした。

 借りたばかりの何もない部屋に帰宅し、英国の携帯電話番号に電話を掛ける。時差を計算したが彼らは丁度日本の空港に到着したばかりだった。インタビューについては明日の授賞式会場で話し合おうとなった。話し方からして信用できる人だと思った。帰国してから数ヶ月。私の英語はどうやら身体に染み付いているようだ。渡英当初、電話口での会話に四苦八苦していた頃が懐かしい。

 次の日、都内のホテルで盛大に開かれた授賞式で、広報担当者に声をかける。この時点でまだインタビューが実施されると決まっていない。ハディド氏本人の“体調”がすぐれないらしい。しかし、このインタビュー実現へのキーマンが広報担当の彼だと判断した私は距離を近づけるべく授賞式後のレセプション会場の片隅で様々な話をした。私が最近まで英国で働いていたこと、英国や日本の建築業界についてなど。パブで同僚としていた他愛ない会話が生きている。

 彼はハディド氏本人に日本滞在中に時間を取れるかどうか直接お願いしてはどうかと提案してきた。日本の関係者の多くが祝福のために作った列に私たちも並ぶ。2020年東京五輪パラリンピック誘致獲得のために選ばれた競技場デザインへの祝辞とこのインタビューで作品に対する思いを日本の読者に発信してはどうか?と伝えた。世界中を飛び回っている長旅の疲れと時差からか椅子に佇む彼女は広報担当の彼に全てを調整させる、と答えた。同行した編集者は日本の様々なスポーツの名場面を生んできた聖地の作り換えるという注目のデザインを生み出した彼女の肉声が少しでも欲しい。しかし広報の彼が言うには全ては彼女の“体調” 次第だという。私はインタビューは実施されないのではないかと不安を抱えたまま帰途についた。

 次の日の朝、広報担当から電話があった。12時に新宿のパークハイアットロビーを集合場所として指定された。すぐさま編集者に連絡をして、向かう。高層階のロビーに到着するもそこからカフェで2時間待たされた。正確にはその間、彼女の功績などのレクチャーを受けていた。それがインタビューのときのネタのヒントになったのだが、まだこの時点でインタビューはキャンセルされる可能性もあると思っていた私は半信半疑で彼の話を聞いていた。

 ようやく彼女の秘書から呼び出しがかかる。ロビーから更に高層階に上がるエレベーターで彼女の待つスイートルームへ。部屋でグランドピアノの前に座る彼女といよいよ対面する。

 冒頭の二つの質問には拒絶の言葉から入った。しかし、ここで引き下がるわけには行かない。食い下がり、様々な質問をあらゆる角度からぶつける。インタビュー中、私はずっと彼女の目を見ていた。オーラをまとった人間の目を見つめ続けるのは気力のいる作業だったが、試されていると感じたら、後はこちらの本気度を見せるだけだ。ロンドンの建設現場の定例会議で責められるときこそ、私は相手の目を見ていた。ためらったり、劣勢に立たされているときこそ下を向いてはいけない。

 コンペ当選案と授賞式で発表された案では競技場の向きが180度変わったことを突っ込んだりしたが、それはたいした問題ではないとでも言うようにあっさりと認めた。淡々と進む中、ロンドン五輪パラリンピックのくだりになり彼女は饒舌になった。自身が設計した競泳場での選手達の躍動と地元民の歓声を体感したという。「あのような素晴らしいイベントが東京に来るのならば、それはあなた達にとっても貴重な体験になる。」と彼女の口調は高揚していた。重苦しい空気から始まったインタビューも彼女の調子が上がってきたところで終了。

 このインタビューが実施されたのは新国立競技所コンペの授賞式のあった4月。それは東京が2020年五輪&パラリンピック開催地に決まる半年も前のこと。当時この都心の巨大な構築物の是非を問う声など、まだ聞こえてなかった。

 箸にも棒にもかからない受け答えで始まったインタビューを同行した編集長は面白がり、音声ファイルから文字起こしされた彼女の肉声はそのまま掲載された。インタビュー初体験の人間が通訳することで彼女も面食らっていただろう。しかし、私に取っては英国の建築の現場で得た経験が生かせた仕事だったのかもしれない。

記事見出しに使われた写真はインタビュー後に撮影されたもの。“体調”のすぐれない彼女に“笑ってください”とは言えない。自然な表情を出してもらおうと私は必死に会話を続ける。しかし、ネタが尽きた。苦し紛れに出た質問が“何か運動とかしていますか?”だった。

第12回 「00年代をロンドンで働いた人にとって五輪は一つのゴールだった -- シリーズ最終回」

“Just do it! (ただやればいいんだよ) ”
2012年暮れ、私は英国を離れ日本に帰ることを決めた。勤務先での紅茶とケーキによる送別会の後、同僚達と近所の馴染みのパブへと流れた。年末で余裕もあったのだろうか。普段、顔を出さない創業者の2人も参加してくれた。混みあったパブの中で、私は勤務先の創業者に『独立してやっていくのに大切なことは何か?』という悩みにも似た質問をぶつけると、シンプルな英語で彼は即答した。

その年の夏に開催されたロンドン五輪パラリンピックは成功を収めたと言われる。しかし、テレビで繰り返し流される映像や通勤途中の新聞紙面に同じ文字を何度を眺めていると盛り上がっているように錯覚してしまうものだ。本当はどうだったのか。競技場プロジェクトに関わった人間として私はこのイベントを冷静に見ようと努めていた。

盛り上がりの頂点は英国チームのメダルラッシュのあった大会二度目の土曜日だった。その週末が明けると会社のトイレでいつもため息と共に仕事の不満を言う同僚と鏡越しに目が合った。その土曜日の夜の五輪のクライマックスをメーンスタジアムで観戦したという幸運な彼はその風景を雄弁に語りはじめた。彼のその話を聞きながら、私はロンドン五輪は盛り上がっていると感じた。

しかし、五輪競技を観戦するチケットはまず獲れなかった。それゆえ少しでもこの雰囲気を味わいたいと思う人々はパラリンピックのチケットに流れた。五輪開幕前にはオンライン上で自由に買えたパラリンピックのチケットも五輪期間中にほぼなくなっていた。またそのように衝動的に買えたのは地元であるロンドン市民が多かったため、パラリンピック期間中には大量の英国旗が揺れることになった。

10月に入り、ロンドン五輪&パラリンピックの熱が徐々に冷めると、多くの外国籍の同僚たちが会社を辞め、母国に帰った。しかも私のように英国の労働環境には珍しく長く勤めた社員が英国を去っていった。皆考えることは同じだったのだろう。00年代の英国を過ごした人々に取って2012年の五輪は一つのゴールだったのかもしれない。

ほぼ新人で日本を離れた私は英国で建築と言う仕事だけでなく、その働き方まで身につけた。そこから多くを学んだ私は“英国を離れ、日本で挑戦することも世界で働くことの一つではないか?”とロンドン五輪&パラリンピックに沸く街を歩きながら考えた。そして、12年間の慣れ親しんだ街を離れることにした。そんなことを思い返しながら、クリスマス目前のパブの喧騒の中、グラスの中のビールをあおった。

勤務先には9年半お世話になったということで会社の創業者に一本づつ私の苗字と同じ名のお酒、10年モノを贈った。ウイスキーの本場スコットランド出身のひとりは日本の味に大変感銘を受けていた。

第11回 「ロンドン五輪直前。クライアントのトップから追い立てられる」

“Don’t get caught out!(交通渋滞にはまって遅れるな)”
ロンドン五輪開幕をあと一ヶ月後に控え、地下鉄駅構内に耳慣れないアナウンスがこだました。でもどこかで聞いたことのある声。スポーツの祭典が近づき体育会のノリなのだろうか。追い立てるような言い回しとアクセントが耳に付く。私はロンドン五輪馬術競技会場の現場からの帰社途中、履き慣れない安全靴で地下鉄駅構内のベンチに座っていた。

それから2年前の2010年初秋。地下鉄駅プロジェクト竣工後、残工事と現場事務所の閉鎖を一人で終えた私は本社へ戻った。一度解雇されかけた会社に残るのはどうか、と日本への本帰国も視野に入れたが、景気の悪い英国の風景がどのようなものか見てみたかった。でなければ景気の良い国という一面の英国しか知らないことになる。なにより数年後にはロンドン五輪が開幕する。それまでに解雇されれば日本に帰ればいい。

しかし、リーマンショック後の経済状態は常に不安定だった。通勤途中で手にする無料新聞の一面には“解雇”“不況”など常にネガティブな単語が躍る。“移民労働者が多すぎるのではないか?”というニュースには敏感に反応してしまう。大胆な人員整理が行われた勤務先のフロアは閑散としていた。それでも早々と海外プロジェクト展開に舵を切った勤務先は、危機を脱したかに見えた2011年後半。今度は欧州危機に見舞われ、統一通貨で国境をなくすEUというシステムの問題が一気に顕在化した。2012年の五輪イヤーに入ったにも関わらず、3か月ごとに契約を更新し一年後の正社員に登用を目指していた契約社員の同僚たちもフロアからいなくなった。

そんな中、私はロンドン五輪のグリニッジ馬術&近代五種競技会場の現場監理に行くことを命ぜられた。経線0度線が通り、世界標準時を決めるグリニッジ天文台のある世界遺産にも指定されている王立公園の中に2万人収容の競技場アリーナと公園全体に全長6kmのクロスカントリーコースを設置するという計画。高低差のある広大な敷地を通り雨や日差しの強い初夏の天候の中、安全靴でひたすら歩き回っていた。

地下鉄駅構内で聞こえたアナウンスの声の主はなんとロンドン市長。“大会期間中の混雑を見込して、市内の移動には十分余裕を持つように”というお達し。半分は大会を盛り上げる意味でのパフォーマンスだろう。しかし、大会まで一ヶ月を切ったがまだ競技場建設現場が終わらない人間にとっては「竣工を遅れるな」に聞こえ、ドキッとした。あと一ヶ月でロンドン五輪が開幕する。

五輪大会期間が近づくにつれ駅構内でひときわ鮮やかな服装をした人が増え始めた。大会のボランティア、ゲームズメーカーと呼ばれる人たちだ。彼らは勤務先に向かうのに家からこのユニフォームを着て行く。私たちの日常にもその色が目に入ってくる。街を移動する彼らの数も徐々に増え、気持ちが盛り上がってくる。

第10回 「朝にクビを切られ、夕方には復帰した慌しい日のこと」

“Don’t go away (どこにも行かないで).”
とプロジェクトマネージャーがふざけながらも小声で呟いた。毎週月曜午後の定例会議が終わった後、彼からは御用聞きのように色々と地下鉄駅プロジェクトの現場からの要望を聞いていた。そのようなことを2年間続け、毎日同じプロジェクトのことばかりを考えていれば愛着も沸いてくる。完成まで見届けたい。しかし、それももう無理なのかも知れない。その日の朝、私は勤務先から解雇を通告されていた。

2年前、“地下の建築でも仕事の方法を学べばいいだろう”と腹を括って向き合うと様々な問題点が見えてきた。現場から来る問い合わせ書類が私たち設計チーム内でたらい回しにされていた。それゆえ、すぐに返答がされないどころか、挙句の果てには忘れ去られることが頻繁にあった。同じことを繰り返せば現場から愛想を付かされてしまう。私が窓口になり全て受け止めた。設計チーム内の誰が担当しているかを把握し、振り分ける。誰が見ても状況がわかるようにリスト作成した。これだけで現場と設計チームの連携はスムーズになり現場からは喜ばれた。

人によっては自分の携帯電話番号を現場に知らせるのを嫌ったが私は全てオープンにした。困ったときは私に連絡をくれれば設計チームの担当者に伝える、とした。覚悟を決めたら物事は進む。ほこりまみれの現場で働くエンジニアたちと向き合う方がオフィスのスクリーンに向かって黙々と作業するより私には合っていたのだろう。日本にいたときのようなイジられながらコミュニケーションを取ったりもしていた。

責任を負うに伴い、仕事と実務的な英語も覚えていった。しかし、そのような情報は本社には届いていなかったのだろうか。リーマンショック以降の解雇の足音が現場事務所にも忍び寄っていたが忙しさに気にする余裕もなかった。そんな月曜日の朝、私はメール一本で解雇を言い渡された。

その日の午後、頭に何も入らない状態のまま定例会議を終え、プロジェクトマネージャーの冗談を受け止められないまま現場事務所のキャビンを出ようとした。するとエンジニアの一人が「ちょっと歩こうか」と声を掛けてきた。自分の父親より年上のその人は現場の誰からも愛されていた。

再開発が本格化する前の工事現場の中を歩きながら彼は言った。「君にはプロジェクトが終わるまで残って欲しい。私から君の会社へは話したが、それでも居られなくなったら私たちが直接君を雇う。」結局、クライアントからの指名ということで私はプロジェクトを完成まで見届け、設計チームの最後の一人としてプロジェクトに関わることとなった。

その日、定例会議を終えてもオフィスに戻る気分になれない。広場のベンチに座ってサボった。少しぐらいはいいだろう。悲しいんだか、うれしいんだかわからない気持ちで空を見上げていた。

第9回 「本社から飛ばされた先で見つけた英国のもう一つの働く姿」

“Welcome aboard!”
「ご搭乗ありがとうございます」すなわち「ようこそわがチームへ」という内容のメールが届いていた。私は不安を抱えながら地下鉄駅プロジェクトチームに合流した。現場設計チームが間借りするエンジニアオフィスで新しいPCを設定し、メールを開くと本社の女性上司が私に気を使ってメールを送ってくれていた。チームメンバーにも私が本社を離れるのを嫌がったという話しが届いていたのだろう。そのPCには私の名前が大きく印刷された紙も貼られていた。私は3人目のチームメンバーとして加わった。

私たちの設計チームは駅舎や空港など交通建築施設を手がけるグループ内にあり、キングスクロスセントパンクラス地下鉄駅改修二期工事の設計と現場監理を担当していた。ハリーポッターの9と3/4番線ホームで多くの観光客が訪れるキングスクロス駅と欧州大陸と英国を結ぶ国際特急列車ユーロスターなどが発着するセントパンクラス駅という二つのターミナル駅を地下で繋ぐ駅である。またこの計画が完成すれば3つの国際空港を結び、2012年のロンドン五輪期間中には日本製の特急列車により会場まで数分で移動を可能にする欧州最大級のハブ駅にもなる。この二期工事では乗り換えの利便性を向上させようと北チケットホールとコンコースを新しくオープンさせる。

現場事務所の入居するエンジニアオフィスは世界中に支店を持つ大手企業だ。社員もエリートばかりだろう。鼻持ちならない連中がいるのかと思っていたが彼らは非常にスマートな集団であり、働く姿は真剣だった。電話口で先方とやり合っている姿はけんか腰だ。面と向かって言い合っている場面も見かけた。怒号、叫び、ため息。幅広い年齢層が居たからだろうか。静寂の中、マウスのクリック音だけが聞こえ、同世代が集まる設計事務所本社とは対極のオフィス空間が広がっていた。そして私はその喧騒が肌に合っていた。勤務先とは違う企業で過ごした現場事務所での時間は私に“英国で働くこと”に別の視点をもたらした。

同じフロアに居るエンジニアにはすぐに相談にいける。職人肌の彼らは簡単に相手にはしてくれなかったが、彼らと日々接することで効果的な質問を発する力と対話の技術が身に付いたと思う。本社から離れ、地下空間に再び戻るのかと落胆していたが、逆に言えばじっくり腰を据えて完成まで一つのプロジェクトに関われるのかも知れない。ものは考えようだ。私は腹を括った。

現場事務所に着任した当時の私のデスクからの風景。世界中から多くの人材が集まる中でもすぐに名前がわかるようにディスプレイにはネームプレートが貼り付けてあった。そこに私はニックネームである“ヤマ”と読んでもらおうと自分オリジナルのものも付けていた。

第8回 「海外で自己主張はどれぐらいすべきか?」

「もういい!君の言い分はわかった!」
怒気のこもった声を聞いたとき、さすがにヤバいと感じた。その朝、勤務先の役員と私は社内のカフェで向き合っていた。どうしても納得のいかない人事に対し、私は自分の主張を訴えていた。日本人は自己主張が足りないと言われるがどれぐらいすべきなのか、私は常にその程度がわからなかった。しかし私は会社の上司、しかも役員を怒らせることでそのさじ加減を学んだ。

2年間に及ぶ地下模型室での潜伏期間を終えた私は晴れて設計士として採用された。地上階のオフィススペースにある自分専用のデスク。しかし、当時の私は随分遠回りをしたと思い、焦っていた。なのに与えられたのは土木工事のようなプロジェクト。しかも自分の父親のようなベテランとの二人チーム。同世代の若い同僚たちは大人数のチームで楽しそうに仕事をしている。残業飯のデリバリーピザを囲む姿も楽しげに見える。何故に私だけがこのようなプロジェクトを担当しているのか?そんな悶々とした気持ちを抱えながら作業をしていた。

そんなある日、女性の上司が私のデスクにやって来てにこやかに言った。「あなたが次に担当するこの地下鉄駅プロジェクトは・・・・」 私の次のプロジェクトは地下鉄駅らしい。また地下生活へ逆戻りなのだろうか?そもそも地下鉄駅は建築と呼べるのか?しかも戻ってくるまで最低2年間常駐するという現場事務所は本社から離れた大手エンジニアオフィスの中にある。慣れない環境でまた一から人間関係を構築していかなければならない。

後日、人事や働く環境について相談するために社内に設けられた制度の“メンター”と呼ばれる上司に私の状況を内線で訴えた。そして受話器を置かずその女性の上司に地下鉄駅プロジェクトに行きたくないと伝えた。きちんとした建築プロジェクトをやりたいという自己主張。

しばらくした朝、今まで挨拶しか交わしたことのない会社役員にカフェへ呼び出された。懇々と諭されるも主張を曲げない私に彼の語気が強まり、焦った私は女性の上司にもう一度話しをする機会をくださいと申し出た。すると彼は「これは君と私の個人的な話だと思って聞いて欲しい。」と前置きをして言った。
「いいか?ドアは完全に閉めないほうがいい。」
その意味を地下鉄駅現場監理の3年間を経てようやく理解するのだが当時の私にはわかるはずも無かった。私は渋々ながら“地下空間”へ戻ることにした。

役員に説教をされた自社ビル内にあるカフェ。テートモダン以外周囲に何もなオープン当時のお客は社員だけだったが、現場常駐から戻ってくるとテムズ川南岸の発展とともに観光客相手の値段になっており、私たち設計士たちには気軽に使えないお店になっていた。

第7回 「地下の模型場から見上げる未来」

「今回はパリで決まりでしょう!」
パリ出身の同僚がそんなことを言っていた。私たちはロンドン市内東部地区の敷地模型を無駄口を叩きながら作っていた。畳サイズはある巨大な模型の既存建物を埋めるのに3mm厚の厚紙を削りだし一層ごと積み上げていく気の遠くなる作業。その紙の模型はロンドン五輪誘致のために使用するという。

英国で三度目の解雇に遭い、そこのボスが次の職場を紹介してくれた。しかし、それは大手設計事務所の模型室。曲がりなりにも設計士として働いていた私は模型制作者へ戻ることに納得いかず「模型を作りに英国へ来たわけじゃない」と生意気にも私を拾ってくれた模型室の責任者に英語で訴えた。彼は諭すように言う。「君の言い分もわかる。しかし、まずは模型を作りながら英語を習得してはどうだろうか?」

現地で働き、生活していれば言葉は自然と身に付くだろうと思っていた。しかし、日常会話と専門用語を交えての実務英語は違っていた。また何度も解雇を経験していると、外国人という身分ではビザ取得など面倒な事態に巻き込まれ、建築どころじゃなくなる。渡英3年目。小さな会社で目一杯働くことを目指していたが、多少の妥協を受け入れる時期に来ていたのかもしれない。

そこから9年間半世話になる設計事務所は二人の英国人建築家によって80年代半ばに設立され、90年代後半から00年代の好景気の波を確実に捉えていた。急成長をする事務所はロンドン中心部のビルの一角では手狭になり、テムズ川南岸にあるテートモダンの裏に建てた自社ビルに引越したばかりだった。地下に設立された模型室には本格的な設備が整えられ、模型が作れる人材を求めていた。私はそこに拾われた。

本社ビル周辺にあるオフィスビル群、フットボールチーム・アーセナルのホームスタジアムを集合住宅に改修するプロジェクトなどの模型を大量に作り続ける日々。しかし、プロジェクト毎に違う設計士の要望を聞くなど、職場の日常を通して、人との距離感、ものの頼み方を体感した。利害関係のある中での触れ合いは貴重な時間だった。



ブツブツ言いながら作った模型でも役に立ったのだろうか?ロンドンは大方の予想を裏切り2012年の五輪の誘致に成功させた。ちなみにこの敷地模型を一緒に作っていたパリ出身の同僚や私を含め、当時の地下室出身者が後にロンドン五輪競技場施設プロジェクトに設計士として深く関わることになる。しかし、当時の私たちは青空が見えない地下室からの風景のように誰もが2012年という未来を見通せなかったように思う。

地下にあった狭い模型室。畳サイズのロンドン五輪誘致メーンパーク模型の場所を確保するの苦労していた。未だに拡張を続ける元勤務先は別館を建設し、その地上階に模型場は移動したらしい。

第6回 「引っ張りだこの末、解雇されるということ」

『私たちは何か間違っているのかもしれない』
ボスの奥さんは経営状態が上向かない事務所の状況をポツリと漏らした。

その日は天気がよかったと覚えている。ボスと奥さんが近くのカフェでミーティングをしようと言い、席に付いた途端、嫌な予感がした。懐かしくも思い出したくない感覚。その朝、私は解雇を告げられた。お金のない事務所なりの生き延びるアイデアを出していたが万策尽きたと言ったところか。彼らの申し訳なさそうな顔を見ながらこの事務所での日々を思い返していた。

経営難を打破するためにボスの考えたアイデアとは他の事務所の模型制作を請け負うというものだった。間借りしていたビルに入居していた大手設計事務所の模型制作責任者のことは以前から知っていた。私が大量に生み出すスタディ模型を陳列した棚の横を通るたびに彼は興味を示していたからだ。私が日本人だとわかると日本のデザインについて聞いてきたり、徐々に会話を交わし始めた。仕事中、正直面倒くさいと思いながらも英会話の練習だと考え、色々と話をしていた。

所員が100人を越えて、大きくなりつつあるその大手事務所の模型場では常に人手を求めていた。そこで所属先である小さな事務所のボスは模型制作の仕事を見つけた。私は日中、模型場に出向き、模型を作る。その時間給が私の所属先に渡され、そこから私の給料が支払われるというアイデア。そのような自転車操業の事務所の内情を知って、模型場の彼は私に移籍してはどうか?と勧めた。模型が作れて(日本人だったら誰でも作れるレベル)、言われた仕事は黙々と(無駄口を叩く英語力がない)確実にやり遂げる。私のことを気に入ってくれていた。模型作りに英国に来た訳ではない、と笑って受け流したが、何も宛てもない自分にも頼れるスキルがあったことにホッとしたのも事実だった。

所属先がコンペやプレゼンで忙しくなると呼び戻されてそこで図面描き、グラフィック、模型作りなどをしていた。模型はその大手事務所の設備を使えたので、弱小事務所なのに立派な木模型が出てきてクライアントは喜んでいたらしい。常に私は忙しい場所の間にいたが、この小さな事務所を大きくしてやろうと本気で思っていた。

しかし、限界が来ていたようだった。この間借りしていた事務所スペースも引き払うらしい。『でも安心しろ。君の次の就職先には話を付けておいた。』とボスは言った。解雇をされたショックもあり、私は事態を飲み込めずにいた。あの模型場の責任者が微笑みながらゆったりした足取りで近づいてきた。

日本への帰国直前、英国で3度目の解雇を言い渡されたカフェのあった場所を訪れてみると、日本食のお店になっていた。私の英国にいた00年代に爆発的な人気を得ていた日本食は街中で味わうことが出来た。

第5回 「若く小さくお金のない事務所で学んだこと」

『お金がないんだ』
ようやく勤め始めた若く小さい建築事務所は慢性的な給料の遅延が続き、恐る恐るボスに給料のことを尋ねるとそう答えた。建築家を志す若者が経済的に恵まれないのは建築業界世界共通のことなのかも知れない。しかし、治安の悪いロンドン南部の安い屋根裏部屋でも家賃を払わなければならない。頼る人間もいない。せっかく見つけた英国3つ目の働く場所もうまくいかないのだろうか。

2つ目の事務所を解雇され、直ぐに“英国建築家年鑑”を開いた。しかし、今まで履歴書を送ったら直ぐに返事のあった就職活動も何故かぱったり連絡がなくなった。

設計事務所へは電話で直接尋ねるものへと変わっていた。受話器越しでも相手の言っていることが何となく理解できるようになっていた。リストアップした事務所に片っ端から電話。『I’m a Japanese architect and looking for job. Do you have a vacancy?』このフレーズを延々と繰り返す。どこかに自分を受け入れてくれる事務所があるはずだと信じて。一日中電話をかけていると夕方には耳がヒリヒリしていた。日中は働いている友人の部屋の電話を借りていたが、電話会社からの請求書に記載された発信記録に彼は驚いていた。僅かな会話も回数を重ねれば相当な金額になっていた。

電話口で反応があれば直ぐに履歴書を送る。しかし、良い返事をもらえない。“Unfortunately(残念ながら),…”断るときの文面に定型文でもあるのだろうか?すべて似ていた。なかには断りのレターと共に履歴書の書き方を親切に“添削”してくれる人までいた。

そんな先の見えない夏に連絡をくれたのが英国3社目の事務所だった。働き始めて知ったのだが丁度、王立建築協会(RIBA)主催の小さなインフォメーションキオスクコンペを獲り、若手建築家として注目されていた。メンバーは二歳年上のボスと彼の教え子で休学(イヤーアウト)していた学生、そして私。同じく建築士のボスの奥さんは他の会社に所属し仕事を掛け持ちしていた。皆20代。若くそして小さな事務所。しかし経営は綱渡り。起死回生を狙って望んだ大学音楽堂のコンペに勝ったものの、大きなプロジェクトのため動きは鈍い。当座のお金がない。私たちの給料の支払いが遅れた。

ある日、ボスは言った。『いいアイデアがある。』

“お金はないがアイデアはある”この事務所にはその後2年近く世話になり、ほぼ新人の私は建築実務だけでなく、英国での働き方など多くを学んだ。しかし、一番学んだのはそのような考え方だったのかも知れない。ボスのその顔は得意気だったことを覚えている。

若く小さくお金のない事務所があった場所。写真右下の白枠ガラス張りのオフィススペースは高価なアートを展示したギャラリーになっていた。ガラス越しに見える人や車を眺めながら私は作業していた。

第4回 「英国建築事務所でOJTは可能か?」

『ごめん。申し訳ないけれど、プロジェクトが無くなりそうなので君を雇えない。』

真実がどうであれ、解雇をされるときに理由を告げられる。プロジェクトがキャンセルされる、ストップする、スローになるなど。当時私に告げられた“プロジェクトがなくなるから解雇される”というのもことの真相は今となってはわからない。しかし、当時の私の英語力は実務レベルにはほど遠く、英国2社目も試用期間で解雇された。

最初に解雇された事務所から“餞別”として貰った『英国建築家年鑑』で次の職場を探した。小規模で得意とする分野が【アート&アーキテクチュア】とする事務所へA4サイズの封筒を郵送した。私のアートのような建築のコンペ作品に共感してくれそうな気がしたからだ。すると前回同様すぐに返事が来て、拙い英語による面接を経ると何故か採用された。

英国人建築家が主宰する建築事務所は、香港で開設され、中国への返還を期に本国に戻ってきたらしい。台湾人の奥さんと一緒に小さな事務所を切り盛りしていた。

実務経験は仕事を通して身につけられるだろうと気楽に構えていたが、違う言語の世界では全く勝手が違った。外部から掛かって来る電話は恐怖以外のなにものでもなかった。誰かが事務所にいるときに電話が掛ってきたら呼び出し音から逃げていたが留守番を任されるとそうもいかない。それでも相手先の名前と電話番号を聞き出せるようにはなった。しかし相手の名前を正確にボスに伝えれないのには困った。まず相手の名前を聞き取れない。聞き取れたとしてもどのようにメモに残すか?単純な英国名のアルファベットの綴りを知らない。そこでカタカナでメモを残したとしても聞き取りを正確にカタカタに落とし込めていない。後でボスに伝えるときに読み返すと正確に発音できていない。ボスは何度も困った顔をしていた。最終的に名前の綴りを教えてもらいメモする方法を身につけた。

また、ロンドンという街を使いこなす術も持っていなかった。模型材料の買出しを頼まれるも、その店がどこにあるのかも知らない。また市内の構造を知らないからその模型店がどのエリアにあるかをボスはイチから私に説明からしなければならない。

そんなある日の夕方、事務所にボスと二人きりになったときに嫌な予感がした。英語圏での空気というのが徐々に読めてきたのだろうか。悪い予感は当たった。解雇。

電話番が出来ない人材を雇う余裕はこの夫婦経営の小さな事務所には無かった。実務経験を積みながらあわよくば英会話も・・・とはムシが良すぎるのだろうか? 私は再び『英国建築家年鑑』を開き、就職活動を再開した。

毎年夏に開催される第243回ロイヤルアカデミー・サマーエキシビション2011にコンペ模型3部作で入選。世界中からの建築作品が並ぶ部屋中央には私が解雇された事務所の網目構造体による巨大な橋の模型が展示してあり、再会を果たした。

第3回 「英国建築事務所での初採用、初解雇。」

『私はあなたのお母さんじゃないのよ!』
その日、私は解雇を告げられた。突然の出来事に戸惑い、理由を求めて拙い英語でしつこく食い下がる私に事務所を主宰する女性はそのように声を荒らげた。これで渡英した3ヶ月前の振り出しに戻ることとなった。

ロンドンに到着し、早速就職活動を始めた。友人は市内観光を勧めたが、私は遊びに来たわけじゃない。ヒースロー空港の入国審査で押された観光ビザのスタンプによるタイムリミットは6ヶ月。そして日本の銀行口座から引き出されるお金にだって限りがある。すぐに働き口を見つけなければならない。

ヘッドレターという挨拶文、CVと呼ばれる履歴書、A4に縮小コピーしたコンペ作品群を封筒に入れ小さな事務所を狙って送った。2、3日すると電話で連絡があった。興味があるから、話に来ないか?というようなことを言っていた。何もバックグラウンドのない外国人である私に興味を示したことに驚いたが、それ以上にショックだったのが何を言っているかさっぱりわからない電話口での英語だった。聞き取れない英語を何度も聞き返すうちに、最初に電話してきた早口の女性は、さじを投げ、若い声のアシスタントらしき女性へと受話器を渡した。どうやら事務所への道順を一生懸命説明してくれていたようだった。

冷や汗をかきながら受話器を置いた。電話口での会話にさじを投げられている人材が面接を突破出来るのか? その時点で合否は決まっていたように思えたが、僅かなチャンスも逃すわけには行かない。前日に地図を頼りに事務所の場所を下見しておき、面接の当日を迎えた。

面接ではたくさん応募していたコンペ作品の量で圧倒しようと考えていた。覚えた英文の説明を一気に話す。もちろん質問をされるとボロが出た。あまりにも拙い面接のやり取りに内心あきらめていると「いつから働けるのか?」と尋ねられ、そのまま面接用のスーツ姿でディスプレイに向かって作業を開始した。

試用期間として3ヶ月。まだ労働許可証や英語などの問題は山ほどある。しかし、職を得た。最初の難関はクリアしたことになる。渡英してから二週間も経っていない。給料の交渉などもやった。相場がわからないから適当にもう少しくださいとお願いすると、すんなりその要求額が通った。それでも今思うと非常に安い給料だったと思う。

事務所は主宰者である英国人建築家夫婦とその教え子の若い女性だけの小規模なものだった。レンガ造の古い建物の狭い部屋の中で夫婦喧嘩か、議論かわからないような声を隣で聞きながら私はスクリーンに向かって黙々とCADで線を描いていた。

『ガイコクの交通機関で通勤し、仕事をしている。』そんなフワフワした気持ちで3ヶ月が過ぎ、そろそろ労働許可証についてお願いしようとすると、私は突然解雇を言い渡された。そんな気配にも気付けなかった。やはり、あまりにも使えないと判断されたのだろう。

解雇を告げれると、彼女は王立英国建築家協会(RIBA)が発行する『英国建築家年鑑』を私にくれた。前年度の使い古しだが、そこには英国の登録建築事務所の一覧が掲載されている。これを見て自分で次の働き口ぐらい探せということなのだ。私は途方にくれた。2001年春先の出来事。英国での最初の解雇のこと。

CVのプロフィール写真として使ったもの。特技:机の上で寝る事。封筒の宛名書きなどにも筆ペンで綴った。その横に篆刻を押す。アジアンテイストを出しちょっとでも相手の気を引こうとしていた。

第2回 「ロンドン初めての夜。タワーブリッジの光の中で」

「本当に仕事辞めて来ちゃったんだ・・・」
と彼がポツリとつぶやいた後、タクシーの車内は静寂に包まれた。
2001年2月上旬。私はアエロフロートの格安航空券でモスクワを経由してヒースロー空港に到着した。そこから地下鉄に乗り、ブルガリア人の友人が待つコベントガーデンという駅に大きな荷物と大きな不安を抱えて降り立った。駅近くの設計事務所で友人は夜遅くまで残業しながら、私の到着を待ってくれていた。私たちはこの街のシンボルである背の高く黒いタクシーを停め、乗り込んだ。長旅の疲れと慣れない英語で何を話したかはわからなかったが、彼のこのつぶやきとその後の思いつめたような間(ま)だけは覚えている。一瞬不安になったが、もう後戻りはできない。退路は断たれたのだ。

大学院を卒業し、東京での新人一年目の職場では本当に可愛がってもらった。ほとんど何をやっているかわからないまま図面を描き、面積計算をする日々。朝から終電まで仕事をしていた。それでも密かに個人のコンペは出し続け、ポートフォリオの英語版も作っていた。上司や先輩が退社した後、作業をする。その後、応接室のソファで寝て、皆さんが出社する前に起きても、十分に睡眠時間が取れると計算していた。英語版ポートフォリオといっても当時の自動翻訳サイトの英語をコピーしただけの代物で、建築コンセプトの気取った日本語では正しい英訳は出てこないはずだ。しかし、私の英語力ではそれが正しいかどうかも判断できなかった。

社会人になって初めての年末。契約社員から正社員にしてくれるというタイミングで海外で働きたいという思いを伝えた。そんな私の若気の至りの企てにも「ダメだったら戻ってこい」と上司や先輩は送り出してくれた。それでも都内移動中の駅のホームでたくさんのスーツ姿を見たときには自分が何かとんでもないことを決断したような気になった。もうあちら側に戻れないのではないかという寂しさ、というより恐怖心が芽生えた。

「タワーブリッジって知っているか?」と友人が声をかけてきた。タクシーはライトアップされた構造物の中に入っていった。その時、始めてロンドンのアイコンであるタワーブリッジを渡り、テムズ川を越えた。「これはロンドン橋ではないのか・・・。」その程度の知識しかこの街にはなかった。タクシーの窓越しに見上げた黄金色に光るタワーブリッジは私の到着を出迎えてくれたように見えた。

夜のタクシーの車中、その足元から始めてタワーブリッジを見た。後に通勤でロンドン橋を渡る二階建てバスの車窓から朝日を背景にした姿を眺めるようになる。

第1回 「新橋のガード下の夜のこと」

「いや、マジメに考えたら?」
と彼は語気を強めた。その瞬間、私の酔いが少し醒めた。

そう問いかけたのはブルガリアの友人。この週末が終われば社会人生活が始まる2000年春先の出来事だ。三度目の来日で日本の味に慣れた彼に東京のローカルな味をと思い新橋ガード下に連れていった。彼とは一年前の夏に新潟の山奥、小白倉で開催されたロンドンの建築学校AAスクールのワークショップで知り合った。

「海外に出たい。しかし、その方法がわからない。」その悶々とした気持ちを建築設計コンペに応募することでしか解消できなかった私は次なる挑戦への情報を探すために開いた建築雑誌で“ワークショップ参加者募集”の文字を見つけた。すぐさま「世界に出るための第一歩に」という暑苦しい志望動機と応募課題を送ると、日本側からのメンバーとして選ばれた。

しかし、過疎地の小さな村の廃校になった小学校を舞台にした世界中から集まった学生との共同作業では、言葉の問題もさることながら、彼らの建築に対する情熱や真摯な態度に打ちのめされた。

また、その一方で彼らとの共同生活では、自分が日本の友人にしているような振る舞いが海外の人々を相手にも通用するのか試したかった。日本語でそうであるように相手を笑わせ、そして私自身が心から笑えるのか?外国を“旅すること”と外国で“生活すること”は違う。新潟の山奥という“ガイコク”での経験を通して、言葉の問題はあるが、海外で生活することが何とかなるのではないかという僅かな手ごたえを感じた。

新潟の山奥小白倉でのワークショップの風景。廃校になった小学校で英国建築学校AAスクールの学生が1ヶ月ほど共同生活をしながら、公園の遊具のようなものを制作し、設置した。
そのワークショップで出逢ったのがブルガリア人の彼だった。「日本では君の国はヨーグルトで有名だ」と、彼にすれば冗談でしかない会話を拙い英語で続けていくうちに仲良くなった。

結局、彼は次の年も日本を訪れ、一緒に日本各地の寺社仏閣や近代・現代建築を見て回った。道中、彼から聞く異国の地での生活に対して、私は「海外に行きたい」と漏らしていたのかもしれない。

そこで彼は新橋のガード下の居酒屋でこう切りだした。「僕の借りているロンドンのフラットの一部屋が空いているから、そこを使って英国での活動を始めてはどうか?」
「あ、いいねぇ」と海外生活に憧れていたものの現実味のない話に私がのらりくらりとかわそうとしていたときに彼は冒頭の言葉をピシャリと被せた。

とは言え、次の月曜日からは私もスーツを着て社会人として設計事務所に勤務するのだ。就職氷河期と言われている中、契約社員として私を入社させてくれるところがある。

「まずは日本で働くよ。そして一年経って気持ちが変わらなかったら、ロンドンに行く」
私は留学ではなく、海外で働きたいと考えていた。お金を払って生活するのではなく、お金を貰って生活したい。しかし、外国でいきなり働き始めることなんて可能なのだろうか?英語も話せず実務経験もほぼないまま?

しかし、彼のひと言で僅かだが世界に出るための道筋が見えた。新橋の夜。学生生活最後の週末のこと。

山嵜 一也 Profile
1974年東京都出身。芝浦工業大学院修了。レイモンド設計事務所を経て、2001年渡英。観光ビザで500社以上の就職活動。ヘイクス アソシエイツでワイカラー ビジターセンターでRIBA賞入選。アライズ アンド モリソン アーキテクツで欧州最大級となるハブ駅キングスクロスセントパンクラス地下鉄駅の設計現場監理。ロンドン五輪では誘致マスタープラン、レガシーマスタープラン、グリニッジ公園馬術競技場の現場監理。個人でもベネトン社店舗計画コンペファイナリスト。スイス家具メーカーのオークションで椅子パターン発表。芝浦工業大学 WEB型非常勤講師(2007-2012)。2013年1月に日本へ帰国。英国の建築設計現場について講演、執筆多数。ロンドン五輪計画についてのコラム「for Tokyo2020!」など。

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