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COLUMN

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世界の街角で働くということ

英国建築設計現場の風景
山嵜 一也
英国に観光ビザで入国し500社以上の就職活動。貰った断りのレターは59通。留学ではなく働くことを求めて海を渡ったのはリアルな英国の風景を見たかったから。必要とされれば採用、いらなくなればクビ。多国籍チームでは多くの誤解も生じたが、そのムッとする瞬間こそが出発点。相手を拒絶していたら距離は縮まらない。英国のやり方すら通用しない。正解がない。答えは一つではない。相手を説得し、自分を納得させる。建設現場では小さなコミュニケーションの積み重ねで信頼を得るのだと肌で学ぶ。理解しようという覚悟。それは語学力とは別次元の話。仕事で使える言語能力は悔しい思いでしか身につかない。12年間で4度の解雇。英国建築設計現場の風景をお伝えします。
第5回 「若く小さくお金のない事務所で学んだこと」

『お金がないんだ』
ようやく勤め始めた若く小さい建築事務所は慢性的な給料の遅延が続き、恐る恐るボスに給料のことを尋ねるとそう答えた。建築家を志す若者が経済的に恵まれないのは建築業界世界共通のことなのかも知れない。しかし、治安の悪いロンドン南部の安い屋根裏部屋でも家賃を払わなければならない。頼る人間もいない。せっかく見つけた英国3つ目の働く場所もうまくいかないのだろうか。

2つ目の事務所を解雇され、直ぐに“英国建築家年鑑”を開いた。しかし、今まで履歴書を送ったら直ぐに返事のあった就職活動も何故かぱったり連絡がなくなった。

設計事務所へは電話で直接尋ねるものへと変わっていた。受話器越しでも相手の言っていることが何となく理解できるようになっていた。リストアップした事務所に片っ端から電話。『I’m a Japanese architect and looking for job. Do you have a vacancy?』このフレーズを延々と繰り返す。どこかに自分を受け入れてくれる事務所があるはずだと信じて。一日中電話をかけていると夕方には耳がヒリヒリしていた。日中は働いている友人の部屋の電話を借りていたが、電話会社からの請求書に記載された発信記録に彼は驚いていた。僅かな会話も回数を重ねれば相当な金額になっていた。

電話口で反応があれば直ぐに履歴書を送る。しかし、良い返事をもらえない。“Unfortunately(残念ながら),…”断るときの文面に定型文でもあるのだろうか?すべて似ていた。なかには断りのレターと共に履歴書の書き方を親切に“添削”してくれる人までいた。

そんな先の見えない夏に連絡をくれたのが英国3社目の事務所だった。働き始めて知ったのだが丁度、王立建築協会(RIBA)主催の小さなインフォメーションキオスクコンペを獲り、若手建築家として注目されていた。メンバーは二歳年上のボスと彼の教え子で休学(イヤーアウト)していた学生、そして私。同じく建築士のボスの奥さんは他の会社に所属し仕事を掛け持ちしていた。皆20代。若くそして小さな事務所。しかし経営は綱渡り。起死回生を狙って望んだ大学音楽堂のコンペに勝ったものの、大きなプロジェクトのため動きは鈍い。当座のお金がない。私たちの給料の支払いが遅れた。

ある日、ボスは言った。『いいアイデアがある。』

“お金はないがアイデアはある”この事務所にはその後2年近く世話になり、ほぼ新人の私は建築実務だけでなく、英国での働き方など多くを学んだ。しかし、一番学んだのはそのような考え方だったのかも知れない。ボスのその顔は得意気だったことを覚えている。

若く小さくお金のない事務所があった場所。写真右下の白枠ガラス張りのオフィススペースは高価なアートを展示したギャラリーになっていた。ガラス越しに見える人や車を眺めながら私は作業していた。

山嵜 一也 Profile
1974年東京都出身。芝浦工業大学院修了。レイモンド設計事務所を経て、2001年渡英。観光ビザで500社以上の就職活動。ヘイクス アソシエイツでワイカラー ビジターセンターでRIBA賞入選。アライズ アンド モリソン アーキテクツで欧州最大級となるハブ駅キングスクロスセントパンクラス地下鉄駅の設計現場監理。ロンドン五輪では誘致マスタープラン、レガシーマスタープラン、グリニッジ公園馬術競技場の現場監理。個人でもベネトン社店舗計画コンペファイナリスト。スイス家具メーカーのオークションで椅子パターン発表。芝浦工業大学 WEB型非常勤講師(2007-2012)。2013年1月に日本へ帰国。英国の建築設計現場について講演、執筆多数。ロンドン五輪計画についてのコラム「for Tokyo2020!」など。

山嵜一也 公式ツイッター ページ