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COLUMN

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世界の街角で働くということ

英国建築設計現場の風景
山嵜 一也
英国に観光ビザで入国し500社以上の就職活動。貰った断りのレターは59通。留学ではなく働くことを求めて海を渡ったのはリアルな英国の風景を見たかったから。必要とされれば採用、いらなくなればクビ。多国籍チームでは多くの誤解も生じたが、そのムッとする瞬間こそが出発点。相手を拒絶していたら距離は縮まらない。英国のやり方すら通用しない。正解がない。答えは一つではない。相手を説得し、自分を納得させる。建設現場では小さなコミュニケーションの積み重ねで信頼を得るのだと肌で学ぶ。理解しようという覚悟。それは語学力とは別次元の話。仕事で使える言語能力は悔しい思いでしか身につかない。12年間で4度の解雇。英国建築設計現場の風景をお伝えします。
第2回 「ロンドン初めての夜。タワーブリッジの光の中で」

「本当に仕事辞めて来ちゃったんだ・・・」
と彼がポツリとつぶやいた後、タクシーの車内は静寂に包まれた。
2001年2月上旬。私はアエロフロートの格安航空券でモスクワを経由してヒースロー空港に到着した。そこから地下鉄に乗り、ブルガリア人の友人が待つコベントガーデンという駅に大きな荷物と大きな不安を抱えて降り立った。駅近くの設計事務所で友人は夜遅くまで残業しながら、私の到着を待ってくれていた。私たちはこの街のシンボルである背の高く黒いタクシーを停め、乗り込んだ。長旅の疲れと慣れない英語で何を話したかはわからなかったが、彼のこのつぶやきとその後の思いつめたような間(ま)だけは覚えている。一瞬不安になったが、もう後戻りはできない。退路は断たれたのだ。

大学院を卒業し、東京での新人一年目の職場では本当に可愛がってもらった。ほとんど何をやっているかわからないまま図面を描き、面積計算をする日々。朝から終電まで仕事をしていた。それでも密かに個人のコンペは出し続け、ポートフォリオの英語版も作っていた。上司や先輩が退社した後、作業をする。その後、応接室のソファで寝て、皆さんが出社する前に起きても、十分に睡眠時間が取れると計算していた。英語版ポートフォリオといっても当時の自動翻訳サイトの英語をコピーしただけの代物で、建築コンセプトの気取った日本語では正しい英訳は出てこないはずだ。しかし、私の英語力ではそれが正しいかどうかも判断できなかった。

社会人になって初めての年末。契約社員から正社員にしてくれるというタイミングで海外で働きたいという思いを伝えた。そんな私の若気の至りの企てにも「ダメだったら戻ってこい」と上司や先輩は送り出してくれた。それでも都内移動中の駅のホームでたくさんのスーツ姿を見たときには自分が何かとんでもないことを決断したような気になった。もうあちら側に戻れないのではないかという寂しさ、というより恐怖心が芽生えた。

「タワーブリッジって知っているか?」と友人が声をかけてきた。タクシーはライトアップされた構造物の中に入っていった。その時、始めてロンドンのアイコンであるタワーブリッジを渡り、テムズ川を越えた。「これはロンドン橋ではないのか・・・。」その程度の知識しかこの街にはなかった。タクシーの窓越しに見上げた黄金色に光るタワーブリッジは私の到着を出迎えてくれたように見えた。

夜のタクシーの車中、その足元から始めてタワーブリッジを見た。後に通勤でロンドン橋を渡る二階建てバスの車窓から朝日を背景にした姿を眺めるようになる。

山嵜 一也 Profile
1974年東京都出身。芝浦工業大学院修了。レイモンド設計事務所を経て、2001年渡英。観光ビザで500社以上の就職活動。ヘイクス アソシエイツでワイカラー ビジターセンターでRIBA賞入選。アライズ アンド モリソン アーキテクツで欧州最大級となるハブ駅キングスクロスセントパンクラス地下鉄駅の設計現場監理。ロンドン五輪では誘致マスタープラン、レガシーマスタープラン、グリニッジ公園馬術競技場の現場監理。個人でもベネトン社店舗計画コンペファイナリスト。スイス家具メーカーのオークションで椅子パターン発表。芝浦工業大学 WEB型非常勤講師(2007-2012)。2013年1月に日本へ帰国。英国の建築設計現場について講演、執筆多数。ロンドン五輪計画についてのコラム「for Tokyo2020!」など。

山嵜一也 公式ツイッター ページ