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COLUMN

Columne

世界の街角で働くということ

英国建築設計現場の風景
山嵜 一也
英国に観光ビザで入国し500社以上の就職活動。貰った断りのレターは59通。留学ではなく働くことを求めて海を渡ったのはリアルな英国の風景を見たかったから。必要とされれば採用、いらなくなればクビ。多国籍チームでは多くの誤解も生じたが、そのムッとする瞬間こそが出発点。相手を拒絶していたら距離は縮まらない。英国のやり方すら通用しない。正解がない。答えは一つではない。相手を説得し、自分を納得させる。建設現場では小さなコミュニケーションの積み重ねで信頼を得るのだと肌で学ぶ。理解しようという覚悟。それは語学力とは別次元の話。仕事で使える言語能力は悔しい思いでしか身につかない。12年間で4度の解雇。英国建築設計現場の風景をお伝えします。
第12回 「00年代をロンドンで働いた人にとって五輪は一つのゴールだった -- シリーズ最終回」

“Just do it! (ただやればいいんだよ) ”
2012年暮れ、私は英国を離れ日本に帰ることを決めた。勤務先での紅茶とケーキによる送別会の後、同僚達と近所の馴染みのパブへと流れた。年末で余裕もあったのだろうか。普段、顔を出さない創業者の2人も参加してくれた。混みあったパブの中で、私は勤務先の創業者に『独立してやっていくのに大切なことは何か?』という悩みにも似た質問をぶつけると、シンプルな英語で彼は即答した。

その年の夏に開催されたロンドン五輪パラリンピックは成功を収めたと言われる。しかし、テレビで繰り返し流される映像や通勤途中の新聞紙面に同じ文字を何度を眺めていると盛り上がっているように錯覚してしまうものだ。本当はどうだったのか。競技場プロジェクトに関わった人間として私はこのイベントを冷静に見ようと努めていた。

盛り上がりの頂点は英国チームのメダルラッシュのあった大会二度目の土曜日だった。その週末が明けると会社のトイレでいつもため息と共に仕事の不満を言う同僚と鏡越しに目が合った。その土曜日の夜の五輪のクライマックスをメーンスタジアムで観戦したという幸運な彼はその風景を雄弁に語りはじめた。彼のその話を聞きながら、私はロンドン五輪は盛り上がっていると感じた。

しかし、五輪競技を観戦するチケットはまず獲れなかった。それゆえ少しでもこの雰囲気を味わいたいと思う人々はパラリンピックのチケットに流れた。五輪開幕前にはオンライン上で自由に買えたパラリンピックのチケットも五輪期間中にほぼなくなっていた。またそのように衝動的に買えたのは地元であるロンドン市民が多かったため、パラリンピック期間中には大量の英国旗が揺れることになった。

10月に入り、ロンドン五輪&パラリンピックの熱が徐々に冷めると、多くの外国籍の同僚たちが会社を辞め、母国に帰った。しかも私のように英国の労働環境には珍しく長く勤めた社員が英国を去っていった。皆考えることは同じだったのだろう。00年代の英国を過ごした人々に取って2012年の五輪は一つのゴールだったのかもしれない。

ほぼ新人で日本を離れた私は英国で建築と言う仕事だけでなく、その働き方まで身につけた。そこから多くを学んだ私は“英国を離れ、日本で挑戦することも世界で働くことの一つではないか?”とロンドン五輪&パラリンピックに沸く街を歩きながら考えた。そして、12年間の慣れ親しんだ街を離れることにした。そんなことを思い返しながら、クリスマス目前のパブの喧騒の中、グラスの中のビールをあおった。

勤務先には9年半お世話になったということで会社の創業者に一本づつ私の苗字と同じ名のお酒、10年モノを贈った。ウイスキーの本場スコットランド出身のひとりは日本の味に大変感銘を受けていた。

山嵜 一也 Profile
1974年東京都出身。芝浦工業大学院修了。レイモンド設計事務所を経て、2001年渡英。観光ビザで500社以上の就職活動。ヘイクス アソシエイツでワイカラー ビジターセンターでRIBA賞入選。アライズ アンド モリソン アーキテクツで欧州最大級となるハブ駅キングスクロスセントパンクラス地下鉄駅の設計現場監理。ロンドン五輪では誘致マスタープラン、レガシーマスタープラン、グリニッジ公園馬術競技場の現場監理。個人でもベネトン社店舗計画コンペファイナリスト。スイス家具メーカーのオークションで椅子パターン発表。芝浦工業大学 WEB型非常勤講師(2007-2012)。2013年1月に日本へ帰国。英国の建築設計現場について講演、執筆多数。ロンドン五輪計画についてのコラム「for Tokyo2020!」など。

山嵜一也 公式ツイッター ページ