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COLUMN

Columne

世界の街角で働くということ

英国建築設計現場の風景
山嵜 一也
英国に観光ビザで入国し500社以上の就職活動。貰った断りのレターは59通。留学ではなく働くことを求めて海を渡ったのはリアルな英国の風景を見たかったから。必要とされれば採用、いらなくなればクビ。多国籍チームでは多くの誤解も生じたが、そのムッとする瞬間こそが出発点。相手を拒絶していたら距離は縮まらない。英国のやり方すら通用しない。正解がない。答えは一つではない。相手を説得し、自分を納得させる。建設現場では小さなコミュニケーションの積み重ねで信頼を得るのだと肌で学ぶ。理解しようという覚悟。それは語学力とは別次元の話。仕事で使える言語能力は悔しい思いでしか身につかない。12年間で4度の解雇。英国建築設計現場の風景をお伝えします。
第7回 「地下の模型場から見上げる未来」

「今回はパリで決まりでしょう!」
パリ出身の同僚がそんなことを言っていた。私たちはロンドン市内東部地区の敷地模型を無駄口を叩きながら作っていた。畳サイズはある巨大な模型の既存建物を埋めるのに3mm厚の厚紙を削りだし一層ごと積み上げていく気の遠くなる作業。その紙の模型はロンドン五輪誘致のために使用するという。

英国で三度目の解雇に遭い、そこのボスが次の職場を紹介してくれた。しかし、それは大手設計事務所の模型室。曲がりなりにも設計士として働いていた私は模型制作者へ戻ることに納得いかず「模型を作りに英国へ来たわけじゃない」と生意気にも私を拾ってくれた模型室の責任者に英語で訴えた。彼は諭すように言う。「君の言い分もわかる。しかし、まずは模型を作りながら英語を習得してはどうだろうか?」

現地で働き、生活していれば言葉は自然と身に付くだろうと思っていた。しかし、日常会話と専門用語を交えての実務英語は違っていた。また何度も解雇を経験していると、外国人という身分ではビザ取得など面倒な事態に巻き込まれ、建築どころじゃなくなる。渡英3年目。小さな会社で目一杯働くことを目指していたが、多少の妥協を受け入れる時期に来ていたのかもしれない。

そこから9年間半世話になる設計事務所は二人の英国人建築家によって80年代半ばに設立され、90年代後半から00年代の好景気の波を確実に捉えていた。急成長をする事務所はロンドン中心部のビルの一角では手狭になり、テムズ川南岸にあるテートモダンの裏に建てた自社ビルに引越したばかりだった。地下に設立された模型室には本格的な設備が整えられ、模型が作れる人材を求めていた。私はそこに拾われた。

本社ビル周辺にあるオフィスビル群、フットボールチーム・アーセナルのホームスタジアムを集合住宅に改修するプロジェクトなどの模型を大量に作り続ける日々。しかし、プロジェクト毎に違う設計士の要望を聞くなど、職場の日常を通して、人との距離感、ものの頼み方を体感した。利害関係のある中での触れ合いは貴重な時間だった。



ブツブツ言いながら作った模型でも役に立ったのだろうか?ロンドンは大方の予想を裏切り2012年の五輪の誘致に成功させた。ちなみにこの敷地模型を一緒に作っていたパリ出身の同僚や私を含め、当時の地下室出身者が後にロンドン五輪競技場施設プロジェクトに設計士として深く関わることになる。しかし、当時の私たちは青空が見えない地下室からの風景のように誰もが2012年という未来を見通せなかったように思う。

地下にあった狭い模型室。畳サイズのロンドン五輪誘致メーンパーク模型の場所を確保するの苦労していた。未だに拡張を続ける元勤務先は別館を建設し、その地上階に模型場は移動したらしい。

山嵜 一也 Profile
1974年東京都出身。芝浦工業大学院修了。レイモンド設計事務所を経て、2001年渡英。観光ビザで500社以上の就職活動。ヘイクス アソシエイツでワイカラー ビジターセンターでRIBA賞入選。アライズ アンド モリソン アーキテクツで欧州最大級となるハブ駅キングスクロスセントパンクラス地下鉄駅の設計現場監理。ロンドン五輪では誘致マスタープラン、レガシーマスタープラン、グリニッジ公園馬術競技場の現場監理。個人でもベネトン社店舗計画コンペファイナリスト。スイス家具メーカーのオークションで椅子パターン発表。芝浦工業大学 WEB型非常勤講師(2007-2012)。2013年1月に日本へ帰国。英国の建築設計現場について講演、執筆多数。ロンドン五輪計画についてのコラム「for Tokyo2020!」など。

山嵜一也 公式ツイッター ページ